【基隆】「基隆港(海洋廣場)」港街基隆の顔

基隆

 今回は台湾北部の港「基隆(キールン/ジーロン)。を紹介したいと思います。基隆といえば港街や夜市のイメージが非常に強いですが、実際、その通りではあるのですが、スペイン、フランス、清、日本にまつわる史跡も多く、見所がたくさんある地でもあります。そして台北からは台鉄で約50分で行ける地の利の良さもいいところです。。
 今回は見どころがたくさんある基隆の中でもど定番の基隆港(海洋廣場)を紹介していきたいと思います。

基隆港(海洋廣場)の基本情報

場所:基隆港(海洋廣場)

住所:基隆市仁愛區忠一路

四方通行:https://guide.easytravel.com.tw/scenic/3098

地図:

グーグルストリートビュー

台鉄台北駅から基隆駅まで

台鉄台北駅からは、区間車でおおよそ40分から55分で行くことが出来ます。台北からでしたら日帰りで気軽に行ける距離にあります。途中停車駅は、松山、南港、汐科、汐止、汐止、百福、七堵、八堵、三坑です。

基隆行きの区間車(基隆駅)

基隆・基隆港の歴史

 基隆は旧名が雞籠です。
 基隆は清朝中頃から、急速に発展しました。主な要因としては、基隆河流域での砂金を産出、周辺の豊富な良質の炭鉱を炭鉱が埋蔵していたことからでした。1875年には「雞籠」という地名を「基隆」へと改めまられました。「基隆」という地名の由来は「基地昌隆(繁栄の基地となる)」からきています。
 
 日本統治開始後の1895年(明治28年)には日本内地の窓口として台湾第一の良港とされたが、港内が狭く、水深も浅かったため、当初は1000t級以上の船は接岸できなかった。後藤新平の建議で5期に及ぶ築港工事が行われ、1903年(明治36年)には第一期工事が完了し、3000t級の船が接岸できるようになった。これにより基隆港の貿易における地位は日を増すごとに高くなり、1916年には貿易量は淡水を超え、一時は高雄港の額も超え、台湾で最も主要な貿易港となりました。

 1924年から1931年にかけ、基隆は市に昇格し、当時の台湾において第四の都市となりました。その後、太平洋戦争において、米軍の爆撃標的となり、港はほぼ廃墟の状況となってしまいました。

 戦後、基隆港の再建が行われ、1980年代には取り扱い量がピークに達します。現在は軍民共用の港として台湾北部の港の都市のイメージがあります。

日本統治時代の基隆港

日本統治時代の写真ですが、港にはたくさんの船があり、当時から港街として発展していたのがわかります。(写真は、鈴木商店記念館WEBを参照しています)

海洋廣場(基隆港)訪問記

台鉄台北駅から電車で約45分で基隆駅に到着です。基隆駅舎は流線的な形状で現代的です。最近出来た新台中駅舎と似ています。やはり同じ台鉄ですので、形状も似たような形になるのですかね。

基隆駅を出て徒歩5分弱のところに、海が広がっています。こちらが海洋廣場ですが、ちょうど、基隆港は入り組んだ場所にあります。

廣場からみた基隆港です。ちょうど両端には山(丘)が広がっています。

左側には、フェリーターミナルがあり、客船が奥の方に停泊しています。手前船には「海巡署 R.O.C COAST GUARD」と書かれています。日本の海上保安庁のような機関の船ですね。

こちらがお馴染みの山のところにある「KEELUNG」の標識です。ハリウッドのような感じですね。基隆に来たら絶対に見るところですね。夜になると、ライトアップがされてきれいですよ。

こちらが夜の「KEELUNG」の標識です。時間毎にライトアップの色が変わります。暗闇の丘の上に輝く標識が非常に綺麗です。

こちらが夜の基隆港です。ちょうどフェリーが停泊しており、遠くには貨物の積み下ろしの設備があります。

こちらは右手側です。緑色の建物がEVA系の「長栄桂冠酒店」です。高級ホテルですね。基隆港は昼と夜の両方見て欲しいですね。

基隆に来た際には、ぜひ昼と夜の基隆港とその周辺を見てほしいですね。昼と夜では雰囲気が全く違いますし、特に夜は、綺麗ですよ!!

*参考資料
 鈴木商店記念館WEB
 基隆市政府 歴史沿革

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Posted by けんいち