【基隆】「北白川宮能久親王紀念碑」日本統治時代初期に台湾に渡った皇族碑

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 今回は基隆にある歴史遺産を紹介していきたいと思います。基隆は海外との玄関口であったこともあり、多くの海外の影響がある土地柄ですが、日本も日清戦争で勝利し、下関条約(馬関条約)により、清より台湾が割譲されると、近衛師団団長北白川宮能久親王が基隆の澳底に上陸し、台湾の平定・統治が始まっていく。
 今回紹介する遺産は日本統治が始まり大きく関わった北白川宮能久親王の石碑です。

北白川宮能久親王紀念碑基本情報

史跡名:北白川宮能久親王紀念碑

住所:基隆市中正區中船路112巷68號

地図:

グーグルストリートビュー

北白川宮能久親王とは?

 北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)「1847年4月1日(弘化4年2月16日)-1895年(明治28年)10月28日)は、日本の皇族で陸軍軍人でした。
 北白川宮能久親王は、1858年、11歳の時に僧侶となるために出家、1867年に、上野の寛永寺に入り、寛永寺貫主・日光輪王寺の門跡を継承しました。

 1868年(明治元年)鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、徳川慶喜は、江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎。幕臣らによって彰義隊が結成され、当初は本営を本願寺に置いたが、後に上野に移し、寛永寺に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)が擁立されることとなった。上野戦争に敗れて、輪王寺公現入道親王は東叡山を脱出し、奥羽に潜行後恭順、伏見宮邸に謹慎となり、輪王寺宮廃絶された。

 明治維新後は還俗し、1872年(明治5年)北白川宮家を相続し、その後ドイツ留学をし(ただしこの時も婚約問題で帰国・謹慎となった)、陸軍将校として軍務に就きます。1895年には乙未戦争(いつびせんそう)の台湾征討近衛師団長として出征。(乙末戦争は日清戦争後に、日本に割譲された台湾で起こった戦争)
戦争は5月から始まり11月に終息され、全島平定を宣言することとなります。この戦争の途中に北白川宮能久親王は戦争の激化した10月にマラリアに罹り、台湾全土直前の10月28日に台南で崩御しました。(享年48歳)
終焉の地には、親王を祀った「台南神社」を建立されることとなります。現在は台南神社は撤去されていますが、跡地の状況はこちらの旅行記を参照ください→https://oitaiwan.jp/post-3025/
また台湾苗栗県にある「通霄神社(つうしょうじんじゃ)」は、天照大神と北白川宮能久親王を祀っており、現在も鳥居が残っており、当時の雰囲気が味わえる場所です。

北白川宮能久親王紀念碑の概要

北白川宮能久親王記念碑は当時の基隆市聯合青年団団長であった桑原正夫の提案によって、1933年(昭和8年)に建設されました。コンクリートによって作られ,裝飾として洗い出し塗裝を施され、高さは3m。長年にわたって保護されなかったため、一部が既に損壊しています。2003年には基隆市の歴史遺産として登録。

北白川宮能久親王紀念碑訪問記

記念碑の場所は海洋廣場から中正路を歩いて進行方向にひとつ目の枝分かれする道の交差点にあります。記念碑は奥まったところに配置されているため、見落としをする可能性があるかもしれません。通り名は中船路112巷です。石碑の裏手には、山林になっています。

入り口には「歴史建築 北白川宮能久親王」というプラスチック製の看板があります。入口の左手側です。

右手には、昔の石碑の写真があります。

こちらの石碑の写真は1933年(昭和8年)と記載されています。写真には数人の人が映っていますが、軍服をきているようです。年代からすると石碑が設置されてすぐに撮影されたものかもしれませんね。

こちらの写真は1935年(昭和10年)のもので、映りが非常にいいですね。

それでは現在の石碑を見てみましょう。北白川宮能久親王の名前が刻まれていましたが、現在は、削り取られています。階段があり、碑の部分が2段構造になっている部分は昔と変わっていませんね。

石碑の裏側は山のがけになっています。ちょうどこの部分だけのために切り開かれた感じになっています。

基隆には日本統治時代に遺跡のみならず清仏戦争に関わる遺産もあります。見所いっぱいの土地柄ですよ。

参考資料:基隆市政府 基隆旅遊網

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Posted by けんいち